【書評/メモ】【渋沢栄一】「論語と算盤」を読んだ感想と100年前から変わらぬ問題点とは?

review

どうも!マルネギです。

先日ちょこちょこ読んでいた「論語と算盤」という本を読み終わったので、紹介するよ!

この論語と算盤という本は、「日本近代化の父」とも言われ、2024年から1万円札の肖像にもなる渋沢栄一が行った講演をまとめたものです。
実は前々から気になっていたのだけど、後回しになってしまってしっかり読めていなかったんだよね!
今回、ばたばたしてる時期が過ぎて、きちんと読み終わったので、紹介するよ!

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そもそも、渋沢栄一ってどんな人?

みなさん、そもそも渋沢栄一ってどんな人かご存知でしょうか?
2024年以降お札が変われば次第に認知されるかもしれないけど、今はまだそんなに詳しく知らないという方が多いのではないでしょうか?
渋沢栄一はすごい簡単にいうと実業家です。第一国立銀行(今のみずほ銀行)の設立に関わり、後に頭取を勤めています。
生まれは1840年で幕末のころに生まれ、一時期尊王攘夷の思想を掲げる青年でした。
しかし、その後最後の将軍である一橋慶喜に仕え、その弟徳川昭武に随行してパリの博覧会に赴きます。
この時に、欧州諸国を見分し、先進国の社会に触れています。
ちなみにですが、この時に日本では大政奉還が行われ、維新が成ります。
帰国後、大蔵省に勤めるなどした後に実業家へ転身、実業家の道をたどっていきます。

「論語と算盤」の大枠の趣旨

そんな渋沢栄一の講演をまとめた本書ですが、渋沢栄一は一つ経営哲学のようなものをもっています。
それは「道徳経済合一論」というものです。
今もまだ通念として、「利潤」と「道徳」というものは対極にあるとされがちですが、渋沢栄一は論語の精神をもって、「利潤」と「道徳」は両立するものであり、商売においてどちらが欠けてもいけない。という哲学を主張しています。
本書のタイトル「論語と算盤」もこの「道徳経済合一論」からきており、論語の道をたどることと算盤の数字を大きくすることは決して相反しないものであるという意味が込められてると感じました。
この中で現在も通じているのではないかという話が何個かあったのでその中でも特に気になったものを2個紹介するよ!

渋沢栄一が訴えた問題点

1.和魂洋才の洋才を過大にするべきでない

渋沢栄一は本書に書かれた講演の中で、けっこうはっきりと「人の心が技術の進歩に追いついていない」と述べているように感じました。
和魂洋才とは日本の独特な感性を大切にしつつ、欧米の技術を取り入れ発展していくことです。
渋沢栄一が生きた時代は幕府が倒れ、開国し、欧米列強に追いつけ追い越せという時代でした。
また、幕府が倒れたことにより、士農工商という明確な身分で制度がなくなり、日本が資本主義への道を歩み始めたころでもあります。
いつの時代も「最近の若者はだらしない」とは言われるものですが、栄一本人も高崎城乗っ取り計画を企てたことのあるくらいの気風の人だったので、武家の生まれでなくとも、「武士道」のようなものを持っていたのかもしれません。
そう考えると、現在のおじさん達が言う言葉とはちょっと重みが違うのかなと感じるところがあります。
また、栄一はこの時若者だけでなくて、経営者層や制度にもこの言葉を投げかけているように感じました。
それは、この当時まだまだ、商人に対して倫理観や漢学などの「道」は不要なものであろうと思う人が多数派だったようです。
そのため、栄一が創設に携わった現在の一橋大学でも利殖の方法は学ぶが経営上の道徳のような教育がおろそかであったと言っています。
これは現在にも通じているような気がしていて、自分が小学校を出たのはもう何十年も前のことですが、「道徳」という授業の時間はかなり軽んじられた扱いをしていたと記憶しています。
ゆとり教育が始まる前も終わったあともとにかく詰め込み教育で、科学知識という「力」を教えるのに対してそれを扱う「心」を教える時間はおそろしく少なかったように感じます。
現在でも、新しい技術・制度が生まれるとそれを悪用しようとする人たちは一定数いるもので、(それがどの時代一定数いたとはいっても)もうちょっと心の教育をしてもいいのかなと思う次第です。

2.学問をするために学問を修める人が多くなり、専門的教育を受けたものが少なくなっている

上記のように身分制度が撤廃され、武士以外も教育を受けるようになった結果、どんな家の子も教育を受けることができるようになりました。
結果何が起きたかというと、学問をしていれば偉い人になれるという認識が広がり、みながみな高等教育を受けようとします。
そして、高等教育を受けたからには、実務的仕事でなく、より上流の仕事に就きたがるということが発生しているという警告を出しています。
これは、現代でも深刻な問題にも関わらず、およそ100年も前からの変化の一環だったのかと衝撃を受けると同時に耳が痛い話でした。
現代では、小学校や中学校は「義務教育」としてほぼ全員がその教育を受けます。
また、大学も全入時代に突入し希望すれば一般の家庭であっても(資金力の問題の程度はあれど)、大学に行けるようになりました。
そして、その結果ブルーワーカーと呼ばれる職業の人気が減り、人手不足になっていることは周知の事実だと思います。
栄一は講演の中で「学問をすれば偉い者になれる、という一種の迷信のために、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする」と批判しています。
一見、だれにでも学問の扉が開かれていることは素晴らしいことではあるし、その自由は制限されるべきではありません。
しかし、分不相応の学問は結果として個人の不幸のみならず、国力の低下を招くと危惧しています。
現在も「高専出身者が一番よく手が動く」というのは技術畑では知れ渡った話しかもしれません。
これはいち早く「専門的技術」の習得に入り、その腕を磨いてきたからと言えるでしょう。
大学が「就職予備校」とか「人生の夏休み」と揶揄される状態は、まさに栄一が危惧していた通りの展開なのかもしれません。

特に、だからこうした方がいい!といったお話ができるわけではありませんが、このように栄一の講演は100年前のものにも関わらず、現在の問題をいくつもびしっと指摘しているものが他にもあります。
武士の世を終えた日本という国はもしかすると維新後根源的に同じ問題を背負い解決できずにいるのかもしれません。
多様化が進んだ現代では改めて自分の生きる道というのも見直す若者が増えているように感じます。
それぞれが自分の分をわきまえて才能を発揮できる道に進んだら、もうちょっと未来は明るくなるかもしれませんね!

とりとめのない感想でしたが、本記事はここまでになります!もし興味があったらみなさんも読んでみて下さいね!

ではでは!

書評

Posted by maruengineer